愛媛百年目の春・鹿児島工:/6 チームの軌跡 「中迫野球」再び甲子園へ /鹿児島
◇常に前向きに
初めての甲子園は「観客」だった。77年8月、外野スタンドに立った瞬間、中迫俊明は震えを覚えた。
鹿児島玉龍高野球部で汗にまみれた3年間は、夏の県大会4回戦で終わった。選手として立てなかった甲子園。観客で埋め尽くされた5万人収容のスタンドは、耳をつんざく歓声に包まれていた。「目指したことは、間違いじゃなかった」。中迫はその時、監督として帰ってくることを決意した。
◇ ◇
体育教師になるため筑波大に進学。全国から集まった野球部の選手たちと酒を酌み交わし、練習方法を聞いて回った。野手でさえボークに該当する13項目をそらんじるなど、ルールや作戦を熟知していた。
「レベルが違う」と痛感した。
83年、教員になったものの中学校に配属され、念願の高校野球部監督になったのは錦江湾に異動した90年。その後川内を経て、03年、鹿児島工に。その間も、休みを利用し、全国の強豪校を訪ね歩き、指導法を徹底的に研究した。
スパルタの松山商、精神面重視の新潟明訓、張りつめた緊張感の中で練習する東京・帝京――。監督のスタイルはさまざまだが、共通していたのは「野球への情熱と、指導方針の徹底」だった。
足袋(東京・国士舘)、鉄棒での打撃(愛媛・済美)などの練習方法をどん欲に取り入れ、ついに06年夏、甲子園初出場を果たす。30年越しの夢かなった甲子園のグラウンド。投手が打たれても、ナイスピッチングと声がかかった...
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(引用 yahooニュース)
愛媛
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